こんにちは。水口結貴です。
今回は、ゴーギャンの「肘掛け椅子のひまわり」を紹介します。

肘掛け椅子のひまわり(デザインコマースコピペ)20170506


ポール・ゴーギャン「肘掛け椅子のひまわり」1901年 E.G.ビュールレ・コレクション財団(※)
※画像は「ツカサデザインコマース」より)

ゴーギャンは1848年、パリで生まれます。その後、一家はペルーでの生活を経て再びフランスのオルレアンで暮らしました。
10代後半になったゴーギャンは航海士としてインドや南米等を訪れ、20歳で海軍に入り普仏戦争にも参加しました。
その後、ゴーギャンは株式仲買人となります。結婚もして5人の子供に恵まれます。この頃は趣味で絵を描いていました。仕事をやめて「画家」として専業するようになったのは、1883年で30代後半になった頃です。

そして、1888年からアルル(南仏)でゴッホと共同生活を送ります。
二人が住んだ建物を、ゴッホは「黄色い家」として描きました。

しかし、ゴーギャンとゴッホの共同生活はわずか2ヶ月ほどで終わりを迎えます。
この間に、ゴッホは有名な「耳切り事件」(自分で自分の耳を切り落としてしまう)を起こしています。

この「耳切り事件」の後、ゴーギャンはアルルを去りました。

ゴッホは、1890年に亡くなりました。
ゴッホの死から11年後の1901年、53歳のゴーギャンはタヒチで「肘掛け椅子のひまわり」を描きました。

この絵のために、ゴーギャンは友人に頼んで、わざわざひまわりの種をヨーロッパからタヒチに取り寄せ、島で栽培して描いた、と言われています。

言うまでもなく「ひまわり」はゴッホが好んで描いた題材です。


●小説のモデルにもなった

イギリスの小説家であり、劇作家でもあったモームは、「月と六ペンス」という小説で注目されるようになりました。この小説の主人公はチャールズ・ストリックランド、という人物ですが、これはポール・ゴーギャンをモデルにしています。

私は、ゴッホもゴーギャンも好きな画家です。
全く性格が違う、それぞれ稀有な才能を持った個性的な二人の生活は一体、どんなものだったのか?

ゴーギャンが「肘掛け椅子のひまわり」を描いていたとき、彼は一体どんなシーンを、どんなゴッホを想い出していたのだろうか?

尊敬か、懐かしさか、憐憫か、もしかしたら「自殺」を選んだゴッホに対する怒りなのか? 

この絵に込められたゴーギャンの葛藤を感じて、忘れられない1枚になりました。